ジュラシック・ワールドの世界で人間は賢くなってはならない

先日映画館で「ジュラシック・ワールド」を見てきました。
正直なところ、すごく見たくて行った訳ではなく大きな期待はしていませんでしたが、それなりに楽しめました。

ただ、もし自分がこの映画を楽しみにしていて、
高い完成度を求めて行ったのならば、満足はできなかったと思います。
なぜなら、ご都合主義過ぎるストーリーに、入り込むことができなかったからです。

以下、物語の核心には触れないつもりですが、まっさらな状態でこれから映画を見たい人は読まないことをおすすめします。

まずよかった点は、今回の舞台が、実際に客がたくさん入ったテーマパークだというところ。ジュラシック・パークは開演前に起こった悲劇でしたが、やはり、人が大勢いるパークで恐竜が暴れるところを誰もが見てみたいと思っていたのではないでしょうか。

そして、シリーズのファンではなくても気づくほど、
ジュラシック・パークへのオマージュが散りばめられていること。
1作目の公開は22年。子どもがすっかり大人になるだけの月日が作中でも流れているのはなかなか感慨深いものがあります。

 

そんな良い点がありながらこの作品を残念に思うのは、
全てのことが恐竜が起こす脅威のためにうまく運びすぎ、
また、人間が愚か過ぎるというところです。

ジュラシック・パークから22年後の世界の人間は、
恐竜に驚くほど雑多な遺伝子を掛け合わせる知性を持ちながら、
何一つリスクマネジメントについて学んでいないようです。
序盤に経営の話が多く出てきますが、年間1千万人の観光客が訪れスポンサーもついているとはいえ、あれだけの島と設備、肉食獣を含めた数多くの恐竜を管理し、とてつもなくかかるだろう餌代が賄えるというリアリティを感じることは難しいです。

時間になれば、セキュリティなど全く働いてなかったのではないかと思えるくらいに最新設備は安々と破られます。主人公グループには、強力な恐竜の爪はいつも届かないが、当然そうでない人たちはぞんざいに殺されてしまいます。いざとなればスピリチュアル傾向のある主人公は、目と目で恐竜と会話することができます。

最初は、ちょっとこれはあまりにも……と思っていましたが、
だんだん、あまりに何もかも都合が良すぎて、おかしくなってきました。
そういう楽しみ方はできるけれども、それでよかったのだろうか?

恐竜に合わせれば、人間側の現実性が犠牲になる。
それは、共存しえなかった二種の生物を同じ世界に
閉じ込めるための、必然なのかもしれません。